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藤枝宿・岡部宿歩かざぁマップ
いまむかし
[LNG:JP]いまむかし

岡部宿の歴史

東海道は江戸から京へ120余里、五街道のうち最も重要な道路でした。
東海道の歴史は古く、奈良時代からあったと言われます。
また、鎌倉時代から戦国時代にも利用されましたが、更に江戸時代になると交通が頻繁になり、人の往来が増え、
幕府は東海道を整備して江戸〜京都間に53の宿場を置き、また一里塚を設置して距離の目安としました。

岡部宿は江戸から21番目の宿場として栄えましたが、人口が少ないため規模が小さく、人手が足りなくなり
隣の内谷村を加宿とし、大名行列のときなどは隣の藤枝宿から寝具や道具を借りたほどでした。

有名な十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも岡部宿が登場します。
世界三大美人の一人「小野小町」の逸話も残っています。

岡部宿マップ 日本語【PDF】
okabe map English【PDF】  

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徳川家の重臣が治め、城下町としても栄えた藤枝宿

藤枝宿は、江戸から四十九里三十町四十四間(約200km)。
東隣の岡部宿へ一里二十六町(約7km)、西隣の島田宿へ二里八町(約9km)のところにあります。
宿場は、田中城の城下町でもあり、田沼意次の所領相良に通じる田沼街道や、高根白山神社への参道高根街道・瀬戸谷街道などの交通の要衝としても栄えました。

天保14年(1843)頃の宿場は、向かい合った鍛冶町と吹屋町を含めて、東入口の左車町木戸から西入口の川原町まで約2kmの長さで総家数1,061軒、人口4,425人と県下の宿場町の中でも有数の規模を誇っていました。
そして、2軒の本陣、2か所の問屋場、大6・中20・小21合わせて47軒の旅籠に加え、旅人や近在の人々を相手にした商店、刀鍛冶など武士相手の店などが軒を並べていたのです。
また、両木戸と田中城の入口大手口には番所が設けられ、番所には城の役人が詰めて宿場の警備に当たっていました。
宿場町として、大層なにぎわいを見せた藤枝宿。
その中に、所々城下町の風情が漂う、独特の雰囲気をもった町だったのです。

藤枝宿マップ 日本語【PDF】
fujieda map English【PDF】

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二つの郡の町で作られた、
独特の形の宿場


藤枝宿は他の宿場のように、
1つの町や村が宿場になったものではありませんでした。
街道に面した志太郡、益津郡の一部の町が
それぞれの親村に属しながら宿駅の役割を担ったのです。
その中心となったのが上伝馬町・下伝馬町で、上伝馬町では下りを、下伝馬町では上りの伝馬業務を分担していました。
そして、業務を助ける町として、上伝馬町には、川原町・木町・鍛冶町・吹屋町の4か町が、
下伝馬町には長楽寺町・左車町の2か町が置かれ、これら6か町を平町と呼んでいました。
6か町と同じように街道筋にありながら、伝馬など諸役を免除された町があります。
長楽寺町と下伝馬町との間にある白子町で、この町は天正10年(1582)の本能寺の変の際、
岡崎に逃げる途中の徳川家康を助けた伊勢国白子の小川孫三がその恩功から当地に住むことを許され、
新白子と名付けて地子・諸役御免の朱印状を賜ったことに由来しています。

上り下りで役割を分担した二つの問屋場

藤枝宿が宿駅となった慶長6年(1601)から数年間、
宿場には問屋場が上伝馬町1か所しかなく、ここで上り下り全ての伝馬業務を行っていました。
しかし、宿場の中心田中城から離れており、その不便さから城に近い大手口の下伝馬町に新たに問屋場が設けられました。
以後、問屋場は2か所となり、上伝馬町では京都から江戸への下りの荷物を、下伝馬町では江戸から京都への上りの荷物を扱ったのです。 問屋場が常備する100人・100頭の人馬は、人足11人ずつと馬50頭ずつは両伝馬町で負担し、
残り78人の人足は6か町の平町が負担していました。そして、両問屋場には問屋場の総責任者・問屋、年寄、帳付、馬指、人足指などの役人が毎日詰めており、伝馬業務に当たっていたのです。

郷土の伝説
[LNG:JP]郷土の伝説
きつねの膏薬(こうやく)

昔、瀬戸川に橋が架けられていなかった頃のある秋の夜更け、
川庄屋富岡屋の表戸を叩くものがありました。主人が出てみると
若い娘がどうしても向こう岸まで渡してほしいと立っています。
川は浅いし若い娘のことだからと
主人自ら肩に乗せて向こう岸まで渡りきり、
渡し賃をもらったところが一枚の枯葉でした。

怒った主人が短刀で切りつけると狐は足首を落として逃げました。
それを拾って家に帰ると、先程の娘がまた来て傷の妙薬と
その作り方を教える代わりに足首を返してくださいと
泣いて頼むので庄屋は足首を返してやりました。

娘(狐)の置いていった薬は不思議によく効いたので、
富岡屋秘伝の妙薬「きつね膏薬」として売り始めたところ、
大層な評判になりました。
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青池の大蛇

今から800年も昔の話です。

岡出山の麓に粉川長楽斎という長者が住んでいました。
長者には賀姫というかわいい娘がいて、
家族3人幸せに暮らしていました。
その当時、長者の屋敷から岡出山を越えて、
南側にマコモ池(今の青池)という大きな池がありました。
そして、この池の底には昔から大蛇が住みついていました。

この大蛇が16歳の美しい賀姫に恋をしてしまいました。
大蛇は美少年に化けると、毎日姫に会いに通いました。
そして、ついには賀姫を騙して池の中に引き入れてしまいました。

一人娘を奪われた長者は大層怒り、池の中に焼いた石やドロドロに溶かした鉄などを流し込んで大蛇を退治しました。
それから自分の屋敷をお寺にして賀姫の冥福を祈りました。
これが今の長楽寺で、裏山には大蛇が通ったといわれる道が今でもはっきりと残されています。

偽橋(いつわりばし)

昔、1人の公家が年老いた母とともに駿河国へ流れてきました。
毎日糸を紡いで貧しい生活を送る母の姿を見るに忍びず、息子は遠くに働きに出かけました。
息子が帰ってきたときに母は既に亡くなっていて、息子は嘆き悲しみ母への供養にと貯めたお金で橋を架けました。
すると不思議なことに、一夜のうちに橋の柱に
「生きてだにかけて頼まぬ露の身を死しての後は偽りの橋」という歌が彫られていました。
今の本町1丁目と2丁目の境あたりに架かっていた橋にまつわる伝説です。

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黒犬物語

昔、賭けごとの大好きな田中城の城主・本多公は
日本一強い土佐犬『シロ』を自慢にしていました。
ある日、鬼岩寺に飼われていた神犬クロと
咬み合いの勝負をさせよ、と命令が下りました。
しかし、クロは城主自慢のシロをわけなく破ってしまいました。
城主は怒り、このクロを殺そうとしました。クロは大勢の家臣に
追われ、ついに神井戸に飛び込んで死んでしまいました。
その瞬間、井戸の水が天高く噴き上がり、
幾万ともない神犬が現れ、一斉に吠えたてました。城主は恐れおののき、クロを祀る社を建てて神犬の霊を鎮めました。
以来、「死してなお負けずの神」として黒犬信仰の風習が起こり、安産と勝負事を叶える神とされたといいます。
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小野小町の姿見の橋

岡部宿場町の面影が残る旧東海道を歩くと、
途中に幅3m程の小さな石橋があります。
車では、簡単に見過ごしてしまいそうなこの橋は
「小野小町の姿見の橋」と伝えられています。

絶世の美女とうたわれた平安の歌人である小野小町は、
京都から東国にいく旅の途中に、岡部の宿に泊まりました。

小町は宿場近くの橋の上から、岡部の山々を眺めていたのですが、
ふと橋の下を見ると、そこには老いてやつれた自分の姿が川面に浮かんでいました。
小町は嘆き悲しみつつ、岡部の宿を後にしたそうです。

姿見の橋は、平成に建て直され、美しい石橋に変わりました。街道沿いもすっかり姿を変えました。
移り変わる時の儚さを、姿見の橋は教えてくれるような気がします。

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鼻取り地蔵

国道1号バイパスの近く、蔦の細道の手前に坂下延命地蔵堂があります。
祀ってあるお地蔵さんは、地域の農家の信仰を集めていますが、それには理由があります。

ある日のこと、お百姓さんが牛をひいていると急に牛が動かなくなりました。
すると1人の子供が現れて、牛の鼻をとって楽々と動かしたのです。
お礼を言おうとすると、子供はどこかに消えてしまいました。
足跡をたどると、地蔵堂の中まで続いています。子供はお地蔵さんの化身だったのです。
それから、お地蔵さんは「鼻取り地蔵」と呼ばれるようになりました。

また、このお地蔵さんにはこの話とは別に、稲刈りを手伝ったという「稲刈地蔵」の伝説もあり、
お堂の中には農家の味方であるお地蔵さんにふさわしく、木や紙の鎌がかけてあります。