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NHK大河ドラマ「風林火山」で取り上げられた、
花倉城・花蔵の乱があったのが、ここ藤枝♪♪です。
少し学んでみましょう。。。

花蔵の乱と花倉城

  今川氏は義元(よしもと)の代に大名権力がもっとも強くなって最盛期を迎えましたが、その義元も1819歳のとき家督を継ぐにあたって異母兄と戦火を交えるという苦い体験をしなければなりませんでした。これが天文5(1536)56月に起こった花蔵の乱で、市内でも花倉城(葉梨城)周辺で戦闘が行われ乱の一大舞台となりました。

 乱の発端は天文5317日に前当主・今川氏輝(うじてる)が24歳の若さで急死したことによります。さらに同じ日に氏輝の兄弟である彦五郎も死去しています。2人の兄弟が同時に亡くなったことによって今川氏の家督をめぐって危機的な状況が生じました。氏輝には子がなかったので、家督候補者として僧身分になっている氏輝の2人の弟が挙がりました。一人は今川義元で、母親は氏親(うじちか)の正室 (晩年出家して寿桂尼[じゅけいに]といった)です。氏輝が亡くなったとき義元は善得寺(富士市今泉)の喝食(食事を担当する少年僧)で、「栴岳承芳」という僧名でした。彼には養育・補佐役として臨済宗の僧であり軍師としても名高い太原崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)が付いており、正室の子である義元が家督継承者としてもっともふさわしい存在でした。その義元と争ったのが異母兄の今川良真です。彼は義元の兄でしたが、母親は今川氏重臣である福島氏の娘でした。当時、良真は遍照光寺(へんしょうこうじ:市内花倉、現在の?照寺)の住持になっていたので、「花蔵殿」・「花蔵」と表記されています。僧名は「玄広恵探」でした。この2人の後継者候補と双方を推す2分した家臣たちによる駿河国内の勢力争いが花蔵の乱と考えられます。

 花蔵の乱については、今川館のあった駿府周辺や由比城などで両軍の戦いが行われており、乱の最終段階は花倉城が落城し、瀬戸ノ谷に逃れた恵探たちは本郷の亀ヶ谷沢で自害し乱は終息しました。こうした反対派の一掃を通して誕生した義元政権が家中における権力を集中させ国力を充実させることができたと考えられます。恵探が自害した場所には江戸時代に供養塔が立てられています。

 今までは、花倉地域でおこった反乱という意味で「花倉の乱」と呼んでいましたが、現在では「花蔵殿の乱」という意味で「花蔵の乱」と表記しています。

今現在、城は残っておりませんが、ゆかりの寺院等は存在しており、城址迄の道のりが、ハイキングコースになっております。是非一度歩いてみて下さいませ。